「高麗伝来御獅子略縁起」

当社第一の重宝御獅子と申奉るはその××高麗のけらと申す所より当社の神威仰き奉納××××より神輿に安置し祭禮の砌には神領十ヶ村へ渡し奉る事即当社の傅軌神威にてありぬ文武天皇の御宇夷等我国に×せしに松原の岡へ八百萬の神等集らせ給ひ当社の御神を御大将にて御対治ありける其の時当村の者共おそれおののきここかしことにけかくれけるか一むれの者共比の御獅子を守護し奉りて白山のふもとにかくれしか戦終りてもそこをさらず村居し男島の名をかたどり島村と名づく夫より祭禮の時節には御獅子を彼の村へ渡し奉るに鳴鹿の石上にて受渡しせしにより今に獅子岩と申す石あり其後事のあらそひありて彼村より帰し奉らさりしか不思議なるかなある夜みづから当社へお帰り在りしとぞ夫より彼村の者共恐れ恐れて三保の社へ参籠してわびし奉るその後彼村へ御渡の事はとどめけると誠に霊験の御獅子なり

… [原文に拠る]…



島(石川県石川郡白峰村字桑島)の村名の由来

 上記の「高麗伝来御獅子略縁起」にも記述されていますように、文武天皇の頃、異国が攻めて来た折に、雄島の人々がおそれおののき方々に逃げ、その中の一群がこの高麗伝来の獅子頭を守って、白山のふもとに隠れたと言われます。しかし、戦いがすんでもそのままそこに住みつき、雄島の名前をかたどり島村と名付けたことです。
 また「当浦謂聞書」によれば、異国の兵が海上から攻めて来た時、高い所に登り遠方の兵船の敵情をうかがい見張る為に、雄島から人を差し向け白山に登らせたともいわれます。戦いが終わってもそれらの人々は帰らず、今の牛首島村は雄島の分村であるとされています。


 獅子祭りについては、昔は分村である島牛首と雄島が、一年交替に獅子祭りを行いましたので、高麗伝来の御獅子を乗せた御神輿の受け渡しがなされました。その受け渡しをした岩があり、今も獅子ヶ岩といわれているとの伝承が、「当浦謂聞書」に記されています。
 一方「高麗伝来御獅子略縁起」には、鳴鹿(現丸岡町・旧鳴鹿村)に獅子岩という石があると伝えられています。さらに同縁起には、一年交替で獅子祭りをしていたところ、その後争いごとがあり島村から雄島へ御獅子を帰さなかったそうです。ところが或る夜、自ら三保の社(大湊神社)へ帰りましたので、島村の人は恐れかしこみ三保の社へおこもりをして、お詫びをしたと述べられていて、「誠に霊験の御獅子なり」と結んでいます。
 また言い伝えられている伝承には、雄島と対岸の洞穴(地名「どんど」)とを結ぶ線上に遠望する事が出来る白山のふもとに安島村の分村があるといいます。また獅子岩のある鳴鹿の地は、雄島と島村の中間にありますから、ここが御獅子を乗せた神輿の受け渡しの地点になされたのだとも伝えられています。