海女唄  

【町指定文化財(昭和45年10月27日)】(町村合併により現在は坂井市)

海女唄の歌詞


1、おん殿様の前裁つくり
  一穂に米が四斗六升 ホイ ホイ

2、ここは京都か御門跡様か
  ごうしゆの庭で有難や ホイ ホイ

3、三才駒に乗鞍かけて
  いこやれ殿をお迎えに ホイ ホイ

4、おん殿様の目もとのしほは
  恋して一目 悲して一目
  おなごりおして また一目 ホイ ホイ
5、おん殿様の召したる足駄
  後歯も黄金 前歯も黄金
  台まで黄金 緒もこがね ホイ ホイ

6、おん殿様のめいれのよさは
  駒屋に駒が 七十五匹
  御門に鎗が千五さを ホイホイ

7、おん殿様の 御門のうちに
  つばくら鳥が 巣をかけ置いて
  一巣もかけぬ 二巣もかけぬ
  三巣・四巣・七巣 八巣かけた ホイ ホイ

8、目出度いことが 三つかさなりて
  海には鯨 山には松よ
  十返りあれば 千万石よ
  俵も重く 重ござる ホイ ホイ


9、ちんてんまらにこけらがはえて
  はえたも道理はえぬも道理
  三年女郎せぬものが ホイ ホイ

10、ただたのめ 越路が浜の 海女乙女
  波の浮世に あけくれて
  弥陀をとのうる 一声に
  沈まぬ身こそ 目出度けれ ホイ ホイ

11、越の海 おりばえあさる
  海女乙女 深くさわりや
  つみとがを そのまま乗せて
  わたしけれ 法の御船を
  たのもしく ホイ ホイ


海女唄について

 明確な発祥は不明ですが、踊りや唄も極めてテンポがゆるく古風で、現在歌詞は11首残っています。 歌詞の中の「ホイーホイー」というのは、海女が水面に浮かび上がった時の呼吸音(口笛)といわれています。
 11首中、初めの8首までは藩主に対する祝賀の歌詞(寿歌)です。9首目は国事叢書に書き留められているもので、卑狼滑稽でくだけて笑ったものでしょうか、国事叢書の筆者も面白さの余りに書き留めたものであろうと思われます。残りの2首は信仰の歌詞で、弘化4年(1847)に達如上人が蓮如上人法会のため吉崎へ下向の途中、当地に立ち寄られて、海女踊りを御覧になり下賜された歌であると米ヶ脇の西光寺文書が伝えています。
 江戸時代中期の明和6年(1769)2月29日に12代福井藩主・松平重富侯が宿泊所の浄土西光寺を出て滝谷寺にて糸桜を見物し、それより「宿浦浜より米ヶ脇浦めとり場にて海女十五人海中へはいり、あわび、さざえ類海菜類取り上り申候其の時、海女踊・海女歌・殊の外御きげんに居らせ御笑い遊ばされ候由に御座候それより宿・西光寺へ御入り遊ばされ御休息、それより唐仁坊一本松へ御出遊ばされ、御帰りがけに水戸小屋へ御入り遊ばされ、しばらく御休息遠目鏡にて沖の方御見物遊ばされ候……」と、大門町記録第七号に記されています。大門町記録第八号には松平重富侯が寛政5年(1793)2月15日に福井から船で三国に来遊し、その時も米ヶ脇かたのり崎 (今の「カッサキ」)へ行き、海女踊り御見物の記録もあります。
 前述の「国事叢書」には、享保18年(1733)3月6日に、藩主・宗矩候が米ヶ脇の遠見番所通りから片苔崎(カッサキ)で海士男女三十一人を海に入れ銭百文づつ下さったと書かれています。
 以上のように、発祥は不明ながら少なくとも江戸時代には現在のような唄と踊りの形が出来ていたと考えられます。
 そして一説には、古い時代には藩主か本願寺の法主以外の者には踊って見せなかったとあります。殿様や法主は、そう度々来るものではなく、永い間踊らない事もあり、次第に歌詞も忘れられ、今日の様に少なくなったものと思われます。現在は9月の米ヶ脇白山神社例大祭で奉納されています。

 ちなみに米ヶ脇は海女踊り以外に、明治初めまで安島や崎と同じ「なんぼや」を盆踊りとしていましたが、次第に三国踊りに変わり、「なんぼや」を忘れるに至ったとも伝えられています。