当仁坊


※『若狭・越前の民話』(杉原丈夫編)には、一般的に知られる東尋坊の悪僧伝説とは別に、旧岡保村(福井市)の伝説として、東尋坊が善僧という説も伝えているのです。

 正長永享年間(1430ころ)勝縁寺の檀家のうち荒木別所に治郎兵衛という者があった。その長男次郎市は、生れつき正直で勇力があった。幼少より仏法に志深く、当寺の本尊である金竜の阿弥陀如来をことのほかあがめていた。
十数才のとき叡山に登り、諸法の奥儀を勉学した。やがて領主の招きにより平泉寺の別院当仁坊に住し、たびたび当寺へも参り、本尊を信念した。

 そのころ平泉寺の衆徒の中に寺領や神領を押し取ろうとする者があるのを聞き、当仁坊は仏説を述べてこれを戒めた。悪徒たちは怒って、一致して彼を殺すことをはかり、彼が大酒を飲むことより、三国港の西安島浦の入り淵の所へ誘引し、酒宴を開いて、熟酔のところを岩壁から海中に突き落した。
 するとにわかに黒雲が巻き上がり、雷電が起り、天地が震動して、大荒れになった。そして亡霊がまず当寺の仏前にひざまつき、それから炎を燃やして平泉寺に至り、平泉寺を焼失した。……

東尋坊(当仁坊)伝説について


 東尋坊には一般的に知られている悪僧説と、善僧説があると述べました。そして悪僧説では「東尋坊」と、善僧説では「当仁坊」と、名前が書かれています。表記の問題では、大湊神社に伝わる古い資料も気になります。これは人名ではなく地名としてです。
 大正年間に書かれたと思われる『社領御図 附上ノ宮境内図』の中、文明八年(1476)の地図の写しがあり、そこにはこの場所が「唐人防」とあり、『三保大明神社領并安島浦絵図』では「唐仁坊」が使われています。『社領御図 附上ノ宮境内図』の中には、「……唐人防の海岸に沿ひて神輿渡御し御道あり。……(中略)……東尋坊とは豊原千住寺の悪僧等、三国城に徒をなし殺人強盗を常とせしかば、悪僧東尋坊なる者を唐人防見物とて誘ひ、不意に池中に突落したり。此より悪僧東尋坊と地名唐人防と同音なるより東尋坊とぞ稱るなりと……」とあります。ここでは『社領御図…』の記述者の伝聞過程でかなり原型が崩れていますが、一般的な伝説では、豊原千住寺ではなく平泉寺です。そしていつからとは書かれていませんが、悪僧名が同音であるが故に地名になったとされています。又、大湊神社に残る江戸時代末期の文書『酒造記録帳』で、ようやく地名として「東尋坊」の表記が見られます。
「東尋坊」という漢字を使うのは僧の伝説から来ているかもしれませんが、「トウジンボウ(唐人坊・唐仁坊)」という音の地名は、もっと古い時代からあったのではないでしょうか。
 そして東尋坊が悪僧か善僧かは、定かではありません。個人的には善僧であったような気もしますが、あくまでも個人的な印象であり、それを裏付ける根拠は一切ありません。そして、この東尋坊伝説が、「史実・歴史・実在した過去」である確証がなく、あくまでも「伝説・民話」であるのなら、全ての説に正否はなく、個人的には全ての説が何らかの形で残る事を願います。「伝説・民話としての価値」は、その確かさとは別に、多くの人に語られ伝えられるその行為の中にこそあるからです。