大湊神社の由緒

弓矢の神様

 当社は白雉年間(西暦650年頃)勤請と伝えられます延喜式内の古社であります。昔、異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)において、霊験をあらわし夷賊を退治しましたことが、後に文武天皇の叡聞に達し、大宝元年2月20日に3頭の勅使が当地につかわされまして、3700石余の社領を御寄進賜わりました。それ以来、当社を弓矢の神様とあがめ、参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることとなりました。ことに海上守護の神様と仰ぎ、近くの港へ寄る船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除けに神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されています。

兜と弓矢の神事

 文治2年の秋、源義経公が奥州へ下降される途中、当地に止宿され、当社へ参拝されまして家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納し、一門の武運と海上の安全を祈願いたしました。(兜今ニ宝蔵ス)
(公の宿舎は時の庄屋の久末七平宅。当社の神主は松村豊尚の代と伝えられています。)

 後、永禄年間に朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められまして、社領など加増せられました。天正年中までは社家7軒にて社務が執り行なわれていましたが、織田信長が当国発向の際に 当社の社殿は兵火に罹り、社領はことごとく没収されるところとなりましたので、慶長年間まで毎年2月20日より陣ヶ岡において、神主村役人等が相集り海上に向って怨敵退治の二タ手(ふたて)の矢の神射式が十日間盛大に執り行なわれましたが、神主等が無禄となりましたので7家の社司の内6家まで余儀無く他の職業に変わり、このため特殊神事として古くから伝えられました行事もできなくなり、ついに中絶のやむなきに至りました。古老の伝えるところによれば天保の頃まで朧げながらもその古実の遺風をとどめ海上に向って「ヤヤノオカカノカドサンテ、シュー」と一声に唱えて矢を射られたとのことです。又この状形を詠まれた歌に「弥生三日浜のわらべの歌声に、ややのおかかのかどさせと呼ぶ」(天保3年古老の記録)
 右の神事が行なわれたと伝えられる陣ヶ岡の遺跡に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されています。


福井藩主の信仰

 その後、福井藩主・松平忠直公(江戸時代の福井藩二代目藩主)が当社の由緒等御取調べになりまして、社殿の御造営 並びに高20石の御社領が寄進され領内大社14社の内の祈願所に定められまして、一門の崇敬厚く、ここにようやく社務も復興しましたので、古実に因みまして、それより嵩村を御旅所と定め毎年2月20日、21日(現在は3月20日、21日)の両日に改め神領10ヶ村を各村送りで神事祭が行なわれるようになりましてより現在なお奉仕されておりますのが、お獅子さまで親しまれてきました当社の春の御渡りの神事であります。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の村の広大な土地の支配が行なわれました荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、村内の文化の中心地であったかがうかがわれます。

 明治8年、旧敦賀県より郷社の社格を賜わり、同41年幣帛供進社に指定せられました。同45年6月、元無格社大神宮祭神、天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神、元境内社の八幡宮祭神・応神天皇を合祀しました。
    
福井市立郷土歴史博物館_所蔵 『福井藩十二ヶ月年中行事絵巻』より